硫黄島からのブログ。 / 2008年03月26日
テニスを愛する皆様、ご機嫌いかがですか?勝村政信です。
硫黄島からのブログ。
先週、普通は行く事の出来ない「場所」と書きましたが、その「場所」とは、
硫黄島でした。
信じられないでしょうが、本当です。
19日に行ってきました。
前日は、仕事で千葉の館山の近くでナイターの(夜間)ロケをしていました。
大分暖かくなってきましたが、さすがに館山の近くは空気がきれいで...寒くて寒くて、口から出る息が白く見えていたほどでした。
当日の東京の天気は、雨になるとゆう予報でした。
朝、5時に起きて、入間のホテルに向かいました。
母親が、前日から泊まっていたからです。
あちきの母親は、台東区の鳥越の出身です。
江戸っ子というやつです。
母が小学四年生の時、母の兄が結核を患っていました。
となり組の人が心配してくれて、兄を空気のきれいな場所に連れて行きなさいと、「硫黄島」を紹介してくれたそうです。
何故、「硫黄島」だったのか?
何故、母の家族は「硫黄島」への引っ越しを受け入れたのか、今となっては、わかりません。
もっと近くでも療養に適した場所はいくらでもあったと思います。
何不自由なく鳥越で暮らしていた五人家族が、兄の病気を治すために「硫黄島」に居を移しました。
当時「硫黄島」は、船で5日間かかったそうです。
船に乗った事の無い小学四年生の母は、すぐに船に酔い、憔悴しきってしまい、なんでこんなつらい思いをしなければならないのだろう?と、逆恨みをしてしまい、着く前から「硫黄島」が嫌で仕方が無かった。と言っていました。
島に着いても、いつまでも船に乗っているようで、気分が悪くて悪くて、島の印象は最悪だったようです。
当時、島は松明を使っていたそうです。
川が無く、水は「雨」が頼りだったそうです。
島には、二年間くらい住んだそうです。
兄の結核は治らなかったようです。
東京に戻って、(と言っても「硫黄島」も東京ですが)すぐに「東京大空襲」にあったそうです。
そんな理由で、あちきは子供の頃から「硫黄島」の事をずっと聞いて知っていました。
そう、当時は「いおうとう」と呼ばれていましたが、いつの間にか「いおうじま」と呼ばれるようになり、最近また「いおうとう」が正式名称になったようです。
数年前に「硫黄島」をクリントイーストウッドが映画にしました。
同じ時期に、フジテレビでも2時間のドラマにもなりました。
このドラマに、あちきは参加させていただきました。
映画は、陸軍の栗林中将がメインでしたが、ドラマは海軍の市丸中将がメインになっていました。
あちきは、市丸中将にとてもかわいがっていただいた、閣下と同県人の松本とゆう、生きのびる事を命令された、兵隊の役で出演させていただきました。
強く、「運命」を感じました。
余談だが、ドラマで同じシーンが多かった柳野くんは、市丸中将との最後のシーンで、スタッフから手渡された、小道具の「はがき」を持ったまま、立ち尽くしていた。
「どうした?」と聞いたら、
「はがきの住所を何気なく見たら、自分の実家の、大阪の住所なんです。」と言って目にうっすら涙を浮かべていた。
側で話を聞いていたみんなに「鳥肌」が立ったのはゆうまでもない。
強く、「運命」を感じた。
他にも、あちきの知らなかった「硫黄島」の歴史をたくさん学ぶ事ができた。
敗戦から数十年たって、当時、「硫黄島」に住んでいた人達が、「墓参」ができるようになった。
もちろん、民間人は「硫黄島」に行く事は出来ない。
島は、海上自衛隊の管理下にあるからだ。
相変わらず、「水」はない。
母は、最初一人で「硫黄島」に「墓参」に行っていた。
数年前から、島民だった方たちの年齢が高くなってきたので、一親等のみ、「付き添い」が許された。
その後母は、父に付き添いを頼み、夫婦で「墓参」に行った。
何故、あちきが「硫黄島」に行く事が出来たのか、これでわかっていただけたでしょう。
ホテルまで「自衛隊」の方の運転するバスが迎えにきてくれた。
そのまま、基地に入り、説明を受け、60人乗りくらいの自衛隊機に、飛行機のお尻から乗り込んだ。
旅客機ではないからだ。
耳栓を渡された。
旅客機ではないからだ。
入間は肌寒く、今にも雨が降り出しそうだった。
飛行機には小さな窓が少ししかついておらず、シートベルトをつけているので、外を見る事は困難である。
何処か、知らない戦地にでも連れて行かれるような錯覚に陥る。
轟音を2時間くらい聞いて、「硫黄島」に着いた。
耳栓はつけなかった。
飛行機のお尻が開いた。
熱風があちきたちを包んだ。
「硫黄島」は亜熱帯に属し、年間平均気温22度の熱帯性気候に恵まれ、ハイビスカス、はまゆう、パパイヤ、パイナップル、バナナなどの熱帯植物が随所にみられる。
と、お土産の絵はがきの裏に書いてある。
まったく、その通りだった。
同じ東京なのに、沖縄の島にバカンスで来たような気になった。
すぐに汗が吹き出し出始めた。
みんな、着ている上着を申し合わせたように脱ぎ始めた。
まず、休憩。
何度も書くが、旅客機に乗っていた訳ではないので、2時間の飛行でも、相当、精神的、肉体的に消耗する。
そして、食事のお弁当が支給された。
何だか、不思議な感じがした。
朝ごはんを食べていたので、あまりお腹が空いていなかったが、この島で食べ物を「残す」とゆうことが「大罪」のような気がして、一生懸命食べた。
バス2台。車2台で出発した。
まず、204設営地に行った。
ここは、釜場だった。
大きな釜が五つあった。
木が生い茂った場所に隠れるように設営されている。
火を焚いている時は、煙が出ないように覆いをしていたそうだ。
説明してくださる自衛官が、赤い蟻に気をつけて下さいと言っていた。
外来種で(アメリカ軍の何かに紛れて運ばれたと思われる)噛むとゆうより、刺されるようだが、刺されると毒で相当腫れてしまうらしい。
全部で9カ所まわった。
平和記念会館、島民墓地では、みなそれぞれが持ってきた、花、お線香、水、酒、お菓子などを供えた。
映画で有名になった「摺鉢山」に登ると、島全体が見える絶景だった。
とても素敵な島だった。
あたたかくて、空気が良くて、静かで、きれいな島だった。
素敵な島だが、昔、母の兄の結核を治す為に、この島に移り住むように助言してくれた、となり組の人の気持ちはわからなかった。
バスで隣になったおばあちゃんは、まわりの景色を見ながら、独り言のように、当時の島のこと、ここに何があったかとか、ずーっとしゃべっていた。
誰に聞かせる訳でもなく、自分で一つ一つ確認するように、思い出すように、ずーっと一人でしゃべっていた。
他にも、ここに何々があったんだよな。とか、おじいちゃんがここらへんに住んでいたんだよ。とか、それぞれが話し合ったり、うなずきあったりしていた。
母は、島民墓地を離れる時、「もう、これないから、もう、これないから」と二回つぶやいてから頭を下げ、ちょっと涙をこぼした。
母は、杖をついている。
多分、あちきを連れてくる事ができたし、身体と年齢を考えて、今回の墓参で終わりにしようと思っていたようだ。
摺鉢山で、母はバスを降りなかった。
足が悪いからだ。
バスは頂上のすぐ側まで入ることができる。
母は、三回「硫黄島」を訪れている。
家族が亡くなった訳ではない。
母に理由を聞くと、「お世話になった兵隊さんがたくさんいたからだよ」と答えた。
あちきが、摺鉢山の頂上でみんなから離れ、海を見ていたら二頭の鯨が潮を噴きながら、何度も頭を海上に出していた。
回りを見ると誰も気がついていない。
教えてあげようかと思ったが、止めておいた。
何かが壊れてしまうと思ったからだ。
バスに戻り母にだけ教えた。
母は、微笑んでいた。
点呼が終わり、同じ飛行機で、同じ轟音を聞き、入間に戻った。
冷たい雨が降っていた。
何が現実かわからなくなりかけた。
さっきまで、暑くて、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている東京にいた。
そして今、寒くて、冷たい雨の降っている東京にいる。
夢を見ていたんじゃないかと思ってしまった。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが「硫黄島」に行った事が、「夢」だったらどんなによかったか。
全部「夢」だったら、何万人も、こんな小さくて、何も無いきれいな島で、命を落とさなくてもよかったのに。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが目を開けたら、小学校四年生の、あちきのあにきの子供の頃にそっくりな顔をした、船の長旅に酔い、ちょっと青ざめた顔をした女の子に、希望に満ちあふれた目をした、あちきにそっくりの足の甲をした、妙に不機嫌な女の子に会えたかもしれない。
結核の兄の療養に来た、島に戸惑うちょっと浮いた雰囲気の家族に会えたかもしれない。
何も音の聞こえない世界に紛れ込んでしまった。
何も聞こえない海で、二頭の鯨が潮を吹いている。
何も聞こえない森で、赤い蟻が何百匹も動いている。
何も聞こえない丘で、母が目から赤い涙を流している。
何も聞こえない空で、アジサシがたくさん飛んでいる。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
空からゆっくりと、はがきが降ってくる。
あちきが拾う。
よく見ると、それはあちきではなく、柳野だった。
柳野も泣いている。
柳野の涙があちきに降り注いだ。
顔をあげると、冷たい雨だった。
急に音が戻った。
まわりを見ると、朝来たホテルの駐車場だった。
それぞれ、なんとなく挨拶したり、「来年も行きましょうね」「お元気で」などと声をかけている。
後ろを見ると、母が杖をついて立っていた。
あちきが渋谷で買ってあげた、緑色の杖だ。
すりへってきた、杖の底のゴムを変えてあげなくちゃ。
まだまだ、お前には働いてもらわなくちゃいけないから。
もう「硫黄島」には行く事は無いと思う。
目をつぶると、二頭の鯨が楽しそうにゆっくりと泳いでいる。
あちきが、硫黄島に行こうが行くまいが。
そんな訳で、今週もがんばって生きていきまっしょい!
硫黄島からのブログ。
先週、普通は行く事の出来ない「場所」と書きましたが、その「場所」とは、
硫黄島でした。
信じられないでしょうが、本当です。
19日に行ってきました。
前日は、仕事で千葉の館山の近くでナイターの(夜間)ロケをしていました。
大分暖かくなってきましたが、さすがに館山の近くは空気がきれいで...寒くて寒くて、口から出る息が白く見えていたほどでした。
当日の東京の天気は、雨になるとゆう予報でした。
朝、5時に起きて、入間のホテルに向かいました。
母親が、前日から泊まっていたからです。
あちきの母親は、台東区の鳥越の出身です。
江戸っ子というやつです。
母が小学四年生の時、母の兄が結核を患っていました。
となり組の人が心配してくれて、兄を空気のきれいな場所に連れて行きなさいと、「硫黄島」を紹介してくれたそうです。
何故、「硫黄島」だったのか?
何故、母の家族は「硫黄島」への引っ越しを受け入れたのか、今となっては、わかりません。
もっと近くでも療養に適した場所はいくらでもあったと思います。
何不自由なく鳥越で暮らしていた五人家族が、兄の病気を治すために「硫黄島」に居を移しました。
当時「硫黄島」は、船で5日間かかったそうです。
船に乗った事の無い小学四年生の母は、すぐに船に酔い、憔悴しきってしまい、なんでこんなつらい思いをしなければならないのだろう?と、逆恨みをしてしまい、着く前から「硫黄島」が嫌で仕方が無かった。と言っていました。
島に着いても、いつまでも船に乗っているようで、気分が悪くて悪くて、島の印象は最悪だったようです。
当時、島は松明を使っていたそうです。
川が無く、水は「雨」が頼りだったそうです。
島には、二年間くらい住んだそうです。
兄の結核は治らなかったようです。
東京に戻って、(と言っても「硫黄島」も東京ですが)すぐに「東京大空襲」にあったそうです。
そんな理由で、あちきは子供の頃から「硫黄島」の事をずっと聞いて知っていました。
そう、当時は「いおうとう」と呼ばれていましたが、いつの間にか「いおうじま」と呼ばれるようになり、最近また「いおうとう」が正式名称になったようです。
数年前に「硫黄島」をクリントイーストウッドが映画にしました。
同じ時期に、フジテレビでも2時間のドラマにもなりました。
このドラマに、あちきは参加させていただきました。
映画は、陸軍の栗林中将がメインでしたが、ドラマは海軍の市丸中将がメインになっていました。
あちきは、市丸中将にとてもかわいがっていただいた、閣下と同県人の松本とゆう、生きのびる事を命令された、兵隊の役で出演させていただきました。
強く、「運命」を感じました。
余談だが、ドラマで同じシーンが多かった柳野くんは、市丸中将との最後のシーンで、スタッフから手渡された、小道具の「はがき」を持ったまま、立ち尽くしていた。
「どうした?」と聞いたら、
「はがきの住所を何気なく見たら、自分の実家の、大阪の住所なんです。」と言って目にうっすら涙を浮かべていた。
側で話を聞いていたみんなに「鳥肌」が立ったのはゆうまでもない。
強く、「運命」を感じた。
他にも、あちきの知らなかった「硫黄島」の歴史をたくさん学ぶ事ができた。
敗戦から数十年たって、当時、「硫黄島」に住んでいた人達が、「墓参」ができるようになった。
もちろん、民間人は「硫黄島」に行く事は出来ない。
島は、海上自衛隊の管理下にあるからだ。
相変わらず、「水」はない。
母は、最初一人で「硫黄島」に「墓参」に行っていた。
数年前から、島民だった方たちの年齢が高くなってきたので、一親等のみ、「付き添い」が許された。
その後母は、父に付き添いを頼み、夫婦で「墓参」に行った。
何故、あちきが「硫黄島」に行く事が出来たのか、これでわかっていただけたでしょう。
ホテルまで「自衛隊」の方の運転するバスが迎えにきてくれた。
そのまま、基地に入り、説明を受け、60人乗りくらいの自衛隊機に、飛行機のお尻から乗り込んだ。
旅客機ではないからだ。
耳栓を渡された。
旅客機ではないからだ。
入間は肌寒く、今にも雨が降り出しそうだった。
飛行機には小さな窓が少ししかついておらず、シートベルトをつけているので、外を見る事は困難である。
何処か、知らない戦地にでも連れて行かれるような錯覚に陥る。
轟音を2時間くらい聞いて、「硫黄島」に着いた。
耳栓はつけなかった。
飛行機のお尻が開いた。
熱風があちきたちを包んだ。
「硫黄島」は亜熱帯に属し、年間平均気温22度の熱帯性気候に恵まれ、ハイビスカス、はまゆう、パパイヤ、パイナップル、バナナなどの熱帯植物が随所にみられる。
と、お土産の絵はがきの裏に書いてある。
まったく、その通りだった。
同じ東京なのに、沖縄の島にバカンスで来たような気になった。
すぐに汗が吹き出し出始めた。
みんな、着ている上着を申し合わせたように脱ぎ始めた。
まず、休憩。
何度も書くが、旅客機に乗っていた訳ではないので、2時間の飛行でも、相当、精神的、肉体的に消耗する。
そして、食事のお弁当が支給された。
何だか、不思議な感じがした。
朝ごはんを食べていたので、あまりお腹が空いていなかったが、この島で食べ物を「残す」とゆうことが「大罪」のような気がして、一生懸命食べた。
バス2台。車2台で出発した。
まず、204設営地に行った。
ここは、釜場だった。
大きな釜が五つあった。
木が生い茂った場所に隠れるように設営されている。
火を焚いている時は、煙が出ないように覆いをしていたそうだ。
説明してくださる自衛官が、赤い蟻に気をつけて下さいと言っていた。
外来種で(アメリカ軍の何かに紛れて運ばれたと思われる)噛むとゆうより、刺されるようだが、刺されると毒で相当腫れてしまうらしい。
全部で9カ所まわった。
平和記念会館、島民墓地では、みなそれぞれが持ってきた、花、お線香、水、酒、お菓子などを供えた。
映画で有名になった「摺鉢山」に登ると、島全体が見える絶景だった。
とても素敵な島だった。
あたたかくて、空気が良くて、静かで、きれいな島だった。
素敵な島だが、昔、母の兄の結核を治す為に、この島に移り住むように助言してくれた、となり組の人の気持ちはわからなかった。
バスで隣になったおばあちゃんは、まわりの景色を見ながら、独り言のように、当時の島のこと、ここに何があったかとか、ずーっとしゃべっていた。
誰に聞かせる訳でもなく、自分で一つ一つ確認するように、思い出すように、ずーっと一人でしゃべっていた。
他にも、ここに何々があったんだよな。とか、おじいちゃんがここらへんに住んでいたんだよ。とか、それぞれが話し合ったり、うなずきあったりしていた。
母は、島民墓地を離れる時、「もう、これないから、もう、これないから」と二回つぶやいてから頭を下げ、ちょっと涙をこぼした。
母は、杖をついている。
多分、あちきを連れてくる事ができたし、身体と年齢を考えて、今回の墓参で終わりにしようと思っていたようだ。
摺鉢山で、母はバスを降りなかった。
足が悪いからだ。
バスは頂上のすぐ側まで入ることができる。
母は、三回「硫黄島」を訪れている。
家族が亡くなった訳ではない。
母に理由を聞くと、「お世話になった兵隊さんがたくさんいたからだよ」と答えた。
あちきが、摺鉢山の頂上でみんなから離れ、海を見ていたら二頭の鯨が潮を噴きながら、何度も頭を海上に出していた。
回りを見ると誰も気がついていない。
教えてあげようかと思ったが、止めておいた。
何かが壊れてしまうと思ったからだ。
バスに戻り母にだけ教えた。
母は、微笑んでいた。
点呼が終わり、同じ飛行機で、同じ轟音を聞き、入間に戻った。
冷たい雨が降っていた。
何が現実かわからなくなりかけた。
さっきまで、暑くて、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている東京にいた。
そして今、寒くて、冷たい雨の降っている東京にいる。
夢を見ていたんじゃないかと思ってしまった。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが「硫黄島」に行った事が、「夢」だったらどんなによかったか。
全部「夢」だったら、何万人も、こんな小さくて、何も無いきれいな島で、命を落とさなくてもよかったのに。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが目を開けたら、小学校四年生の、あちきのあにきの子供の頃にそっくりな顔をした、船の長旅に酔い、ちょっと青ざめた顔をした女の子に、希望に満ちあふれた目をした、あちきにそっくりの足の甲をした、妙に不機嫌な女の子に会えたかもしれない。
結核の兄の療養に来た、島に戸惑うちょっと浮いた雰囲気の家族に会えたかもしれない。
何も音の聞こえない世界に紛れ込んでしまった。
何も聞こえない海で、二頭の鯨が潮を吹いている。
何も聞こえない森で、赤い蟻が何百匹も動いている。
何も聞こえない丘で、母が目から赤い涙を流している。
何も聞こえない空で、アジサシがたくさん飛んでいる。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
空からゆっくりと、はがきが降ってくる。
あちきが拾う。
よく見ると、それはあちきではなく、柳野だった。
柳野も泣いている。
柳野の涙があちきに降り注いだ。
顔をあげると、冷たい雨だった。
急に音が戻った。
まわりを見ると、朝来たホテルの駐車場だった。
それぞれ、なんとなく挨拶したり、「来年も行きましょうね」「お元気で」などと声をかけている。
後ろを見ると、母が杖をついて立っていた。
あちきが渋谷で買ってあげた、緑色の杖だ。
すりへってきた、杖の底のゴムを変えてあげなくちゃ。
まだまだ、お前には働いてもらわなくちゃいけないから。
もう「硫黄島」には行く事は無いと思う。
目をつぶると、二頭の鯨が楽しそうにゆっくりと泳いでいる。
あちきが、硫黄島に行こうが行くまいが。
そんな訳で、今週もがんばって生きていきまっしょい!