硫黄島からのブログ。 / 2008年03月26日
テニスを愛する皆様、ご機嫌いかがですか?勝村政信です。
硫黄島からのブログ。
先週、普通は行く事の出来ない「場所」と書きましたが、その「場所」とは、
硫黄島でした。
信じられないでしょうが、本当です。
19日に行ってきました。
前日は、仕事で千葉の館山の近くでナイターの(夜間)ロケをしていました。
大分暖かくなってきましたが、さすがに館山の近くは空気がきれいで...寒くて寒くて、口から出る息が白く見えていたほどでした。
当日の東京の天気は、雨になるとゆう予報でした。
朝、5時に起きて、入間のホテルに向かいました。
母親が、前日から泊まっていたからです。
あちきの母親は、台東区の鳥越の出身です。
江戸っ子というやつです。
母が小学四年生の時、母の兄が結核を患っていました。
となり組の人が心配してくれて、兄を空気のきれいな場所に連れて行きなさいと、「硫黄島」を紹介してくれたそうです。
何故、「硫黄島」だったのか?
何故、母の家族は「硫黄島」への引っ越しを受け入れたのか、今となっては、わかりません。
もっと近くでも療養に適した場所はいくらでもあったと思います。
何不自由なく鳥越で暮らしていた五人家族が、兄の病気を治すために「硫黄島」に居を移しました。
当時「硫黄島」は、船で5日間かかったそうです。
船に乗った事の無い小学四年生の母は、すぐに船に酔い、憔悴しきってしまい、なんでこんなつらい思いをしなければならないのだろう?と、逆恨みをしてしまい、着く前から「硫黄島」が嫌で仕方が無かった。と言っていました。
島に着いても、いつまでも船に乗っているようで、気分が悪くて悪くて、島の印象は最悪だったようです。
当時、島は松明を使っていたそうです。
川が無く、水は「雨」が頼りだったそうです。
島には、二年間くらい住んだそうです。
兄の結核は治らなかったようです。
東京に戻って、(と言っても「硫黄島」も東京ですが)すぐに「東京大空襲」にあったそうです。
そんな理由で、あちきは子供の頃から「硫黄島」の事をずっと聞いて知っていました。
そう、当時は「いおうとう」と呼ばれていましたが、いつの間にか「いおうじま」と呼ばれるようになり、最近また「いおうとう」が正式名称になったようです。
数年前に「硫黄島」をクリントイーストウッドが映画にしました。
同じ時期に、フジテレビでも2時間のドラマにもなりました。
このドラマに、あちきは参加させていただきました。
映画は、陸軍の栗林中将がメインでしたが、ドラマは海軍の市丸中将がメインになっていました。
あちきは、市丸中将にとてもかわいがっていただいた、閣下と同県人の松本とゆう、生きのびる事を命令された、兵隊の役で出演させていただきました。
強く、「運命」を感じました。
余談だが、ドラマで同じシーンが多かった柳野くんは、市丸中将との最後のシーンで、スタッフから手渡された、小道具の「はがき」を持ったまま、立ち尽くしていた。
「どうした?」と聞いたら、
「はがきの住所を何気なく見たら、自分の実家の、大阪の住所なんです。」と言って目にうっすら涙を浮かべていた。
側で話を聞いていたみんなに「鳥肌」が立ったのはゆうまでもない。
強く、「運命」を感じた。
他にも、あちきの知らなかった「硫黄島」の歴史をたくさん学ぶ事ができた。
敗戦から数十年たって、当時、「硫黄島」に住んでいた人達が、「墓参」ができるようになった。
もちろん、民間人は「硫黄島」に行く事は出来ない。
島は、海上自衛隊の管理下にあるからだ。
相変わらず、「水」はない。
母は、最初一人で「硫黄島」に「墓参」に行っていた。
数年前から、島民だった方たちの年齢が高くなってきたので、一親等のみ、「付き添い」が許された。
その後母は、父に付き添いを頼み、夫婦で「墓参」に行った。
何故、あちきが「硫黄島」に行く事が出来たのか、これでわかっていただけたでしょう。
ホテルまで「自衛隊」の方の運転するバスが迎えにきてくれた。
そのまま、基地に入り、説明を受け、60人乗りくらいの自衛隊機に、飛行機のお尻から乗り込んだ。
旅客機ではないからだ。
耳栓を渡された。
旅客機ではないからだ。
入間は肌寒く、今にも雨が降り出しそうだった。
飛行機には小さな窓が少ししかついておらず、シートベルトをつけているので、外を見る事は困難である。
何処か、知らない戦地にでも連れて行かれるような錯覚に陥る。
轟音を2時間くらい聞いて、「硫黄島」に着いた。
耳栓はつけなかった。
飛行機のお尻が開いた。
熱風があちきたちを包んだ。
「硫黄島」は亜熱帯に属し、年間平均気温22度の熱帯性気候に恵まれ、ハイビスカス、はまゆう、パパイヤ、パイナップル、バナナなどの熱帯植物が随所にみられる。
と、お土産の絵はがきの裏に書いてある。
まったく、その通りだった。
同じ東京なのに、沖縄の島にバカンスで来たような気になった。
すぐに汗が吹き出し出始めた。
みんな、着ている上着を申し合わせたように脱ぎ始めた。
まず、休憩。
何度も書くが、旅客機に乗っていた訳ではないので、2時間の飛行でも、相当、精神的、肉体的に消耗する。
そして、食事のお弁当が支給された。
何だか、不思議な感じがした。
朝ごはんを食べていたので、あまりお腹が空いていなかったが、この島で食べ物を「残す」とゆうことが「大罪」のような気がして、一生懸命食べた。
バス2台。車2台で出発した。
まず、204設営地に行った。
ここは、釜場だった。
大きな釜が五つあった。
木が生い茂った場所に隠れるように設営されている。
火を焚いている時は、煙が出ないように覆いをしていたそうだ。
説明してくださる自衛官が、赤い蟻に気をつけて下さいと言っていた。
外来種で(アメリカ軍の何かに紛れて運ばれたと思われる)噛むとゆうより、刺されるようだが、刺されると毒で相当腫れてしまうらしい。
全部で9カ所まわった。
平和記念会館、島民墓地では、みなそれぞれが持ってきた、花、お線香、水、酒、お菓子などを供えた。
映画で有名になった「摺鉢山」に登ると、島全体が見える絶景だった。
とても素敵な島だった。
あたたかくて、空気が良くて、静かで、きれいな島だった。
素敵な島だが、昔、母の兄の結核を治す為に、この島に移り住むように助言してくれた、となり組の人の気持ちはわからなかった。
バスで隣になったおばあちゃんは、まわりの景色を見ながら、独り言のように、当時の島のこと、ここに何があったかとか、ずーっとしゃべっていた。
誰に聞かせる訳でもなく、自分で一つ一つ確認するように、思い出すように、ずーっと一人でしゃべっていた。
他にも、ここに何々があったんだよな。とか、おじいちゃんがここらへんに住んでいたんだよ。とか、それぞれが話し合ったり、うなずきあったりしていた。
母は、島民墓地を離れる時、「もう、これないから、もう、これないから」と二回つぶやいてから頭を下げ、ちょっと涙をこぼした。
母は、杖をついている。
多分、あちきを連れてくる事ができたし、身体と年齢を考えて、今回の墓参で終わりにしようと思っていたようだ。
摺鉢山で、母はバスを降りなかった。
足が悪いからだ。
バスは頂上のすぐ側まで入ることができる。
母は、三回「硫黄島」を訪れている。
家族が亡くなった訳ではない。
母に理由を聞くと、「お世話になった兵隊さんがたくさんいたからだよ」と答えた。
あちきが、摺鉢山の頂上でみんなから離れ、海を見ていたら二頭の鯨が潮を噴きながら、何度も頭を海上に出していた。
回りを見ると誰も気がついていない。
教えてあげようかと思ったが、止めておいた。
何かが壊れてしまうと思ったからだ。
バスに戻り母にだけ教えた。
母は、微笑んでいた。
点呼が終わり、同じ飛行機で、同じ轟音を聞き、入間に戻った。
冷たい雨が降っていた。
何が現実かわからなくなりかけた。
さっきまで、暑くて、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている東京にいた。
そして今、寒くて、冷たい雨の降っている東京にいる。
夢を見ていたんじゃないかと思ってしまった。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが「硫黄島」に行った事が、「夢」だったらどんなによかったか。
全部「夢」だったら、何万人も、こんな小さくて、何も無いきれいな島で、命を落とさなくてもよかったのに。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが目を開けたら、小学校四年生の、あちきのあにきの子供の頃にそっくりな顔をした、船の長旅に酔い、ちょっと青ざめた顔をした女の子に、希望に満ちあふれた目をした、あちきにそっくりの足の甲をした、妙に不機嫌な女の子に会えたかもしれない。
結核の兄の療養に来た、島に戸惑うちょっと浮いた雰囲気の家族に会えたかもしれない。
何も音の聞こえない世界に紛れ込んでしまった。
何も聞こえない海で、二頭の鯨が潮を吹いている。
何も聞こえない森で、赤い蟻が何百匹も動いている。
何も聞こえない丘で、母が目から赤い涙を流している。
何も聞こえない空で、アジサシがたくさん飛んでいる。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
空からゆっくりと、はがきが降ってくる。
あちきが拾う。
よく見ると、それはあちきではなく、柳野だった。
柳野も泣いている。
柳野の涙があちきに降り注いだ。
顔をあげると、冷たい雨だった。
急に音が戻った。
まわりを見ると、朝来たホテルの駐車場だった。
それぞれ、なんとなく挨拶したり、「来年も行きましょうね」「お元気で」などと声をかけている。
後ろを見ると、母が杖をついて立っていた。
あちきが渋谷で買ってあげた、緑色の杖だ。
すりへってきた、杖の底のゴムを変えてあげなくちゃ。
まだまだ、お前には働いてもらわなくちゃいけないから。
もう「硫黄島」には行く事は無いと思う。
目をつぶると、二頭の鯨が楽しそうにゆっくりと泳いでいる。
あちきが、硫黄島に行こうが行くまいが。
そんな訳で、今週もがんばって生きていきまっしょい!
硫黄島からのブログ。
先週、普通は行く事の出来ない「場所」と書きましたが、その「場所」とは、
硫黄島でした。
信じられないでしょうが、本当です。
19日に行ってきました。
前日は、仕事で千葉の館山の近くでナイターの(夜間)ロケをしていました。
大分暖かくなってきましたが、さすがに館山の近くは空気がきれいで...寒くて寒くて、口から出る息が白く見えていたほどでした。
当日の東京の天気は、雨になるとゆう予報でした。
朝、5時に起きて、入間のホテルに向かいました。
母親が、前日から泊まっていたからです。
あちきの母親は、台東区の鳥越の出身です。
江戸っ子というやつです。
母が小学四年生の時、母の兄が結核を患っていました。
となり組の人が心配してくれて、兄を空気のきれいな場所に連れて行きなさいと、「硫黄島」を紹介してくれたそうです。
何故、「硫黄島」だったのか?
何故、母の家族は「硫黄島」への引っ越しを受け入れたのか、今となっては、わかりません。
もっと近くでも療養に適した場所はいくらでもあったと思います。
何不自由なく鳥越で暮らしていた五人家族が、兄の病気を治すために「硫黄島」に居を移しました。
当時「硫黄島」は、船で5日間かかったそうです。
船に乗った事の無い小学四年生の母は、すぐに船に酔い、憔悴しきってしまい、なんでこんなつらい思いをしなければならないのだろう?と、逆恨みをしてしまい、着く前から「硫黄島」が嫌で仕方が無かった。と言っていました。
島に着いても、いつまでも船に乗っているようで、気分が悪くて悪くて、島の印象は最悪だったようです。
当時、島は松明を使っていたそうです。
川が無く、水は「雨」が頼りだったそうです。
島には、二年間くらい住んだそうです。
兄の結核は治らなかったようです。
東京に戻って、(と言っても「硫黄島」も東京ですが)すぐに「東京大空襲」にあったそうです。
そんな理由で、あちきは子供の頃から「硫黄島」の事をずっと聞いて知っていました。
そう、当時は「いおうとう」と呼ばれていましたが、いつの間にか「いおうじま」と呼ばれるようになり、最近また「いおうとう」が正式名称になったようです。
数年前に「硫黄島」をクリントイーストウッドが映画にしました。
同じ時期に、フジテレビでも2時間のドラマにもなりました。
このドラマに、あちきは参加させていただきました。
映画は、陸軍の栗林中将がメインでしたが、ドラマは海軍の市丸中将がメインになっていました。
あちきは、市丸中将にとてもかわいがっていただいた、閣下と同県人の松本とゆう、生きのびる事を命令された、兵隊の役で出演させていただきました。
強く、「運命」を感じました。
余談だが、ドラマで同じシーンが多かった柳野くんは、市丸中将との最後のシーンで、スタッフから手渡された、小道具の「はがき」を持ったまま、立ち尽くしていた。
「どうした?」と聞いたら、
「はがきの住所を何気なく見たら、自分の実家の、大阪の住所なんです。」と言って目にうっすら涙を浮かべていた。
側で話を聞いていたみんなに「鳥肌」が立ったのはゆうまでもない。
強く、「運命」を感じた。
他にも、あちきの知らなかった「硫黄島」の歴史をたくさん学ぶ事ができた。
敗戦から数十年たって、当時、「硫黄島」に住んでいた人達が、「墓参」ができるようになった。
もちろん、民間人は「硫黄島」に行く事は出来ない。
島は、海上自衛隊の管理下にあるからだ。
相変わらず、「水」はない。
母は、最初一人で「硫黄島」に「墓参」に行っていた。
数年前から、島民だった方たちの年齢が高くなってきたので、一親等のみ、「付き添い」が許された。
その後母は、父に付き添いを頼み、夫婦で「墓参」に行った。
何故、あちきが「硫黄島」に行く事が出来たのか、これでわかっていただけたでしょう。
ホテルまで「自衛隊」の方の運転するバスが迎えにきてくれた。
そのまま、基地に入り、説明を受け、60人乗りくらいの自衛隊機に、飛行機のお尻から乗り込んだ。
旅客機ではないからだ。
耳栓を渡された。
旅客機ではないからだ。
入間は肌寒く、今にも雨が降り出しそうだった。
飛行機には小さな窓が少ししかついておらず、シートベルトをつけているので、外を見る事は困難である。
何処か、知らない戦地にでも連れて行かれるような錯覚に陥る。
轟音を2時間くらい聞いて、「硫黄島」に着いた。
耳栓はつけなかった。
飛行機のお尻が開いた。
熱風があちきたちを包んだ。
「硫黄島」は亜熱帯に属し、年間平均気温22度の熱帯性気候に恵まれ、ハイビスカス、はまゆう、パパイヤ、パイナップル、バナナなどの熱帯植物が随所にみられる。
と、お土産の絵はがきの裏に書いてある。
まったく、その通りだった。
同じ東京なのに、沖縄の島にバカンスで来たような気になった。
すぐに汗が吹き出し出始めた。
みんな、着ている上着を申し合わせたように脱ぎ始めた。
まず、休憩。
何度も書くが、旅客機に乗っていた訳ではないので、2時間の飛行でも、相当、精神的、肉体的に消耗する。
そして、食事のお弁当が支給された。
何だか、不思議な感じがした。
朝ごはんを食べていたので、あまりお腹が空いていなかったが、この島で食べ物を「残す」とゆうことが「大罪」のような気がして、一生懸命食べた。
バス2台。車2台で出発した。
まず、204設営地に行った。
ここは、釜場だった。
大きな釜が五つあった。
木が生い茂った場所に隠れるように設営されている。
火を焚いている時は、煙が出ないように覆いをしていたそうだ。
説明してくださる自衛官が、赤い蟻に気をつけて下さいと言っていた。
外来種で(アメリカ軍の何かに紛れて運ばれたと思われる)噛むとゆうより、刺されるようだが、刺されると毒で相当腫れてしまうらしい。
全部で9カ所まわった。
平和記念会館、島民墓地では、みなそれぞれが持ってきた、花、お線香、水、酒、お菓子などを供えた。
映画で有名になった「摺鉢山」に登ると、島全体が見える絶景だった。
とても素敵な島だった。
あたたかくて、空気が良くて、静かで、きれいな島だった。
素敵な島だが、昔、母の兄の結核を治す為に、この島に移り住むように助言してくれた、となり組の人の気持ちはわからなかった。
バスで隣になったおばあちゃんは、まわりの景色を見ながら、独り言のように、当時の島のこと、ここに何があったかとか、ずーっとしゃべっていた。
誰に聞かせる訳でもなく、自分で一つ一つ確認するように、思い出すように、ずーっと一人でしゃべっていた。
他にも、ここに何々があったんだよな。とか、おじいちゃんがここらへんに住んでいたんだよ。とか、それぞれが話し合ったり、うなずきあったりしていた。
母は、島民墓地を離れる時、「もう、これないから、もう、これないから」と二回つぶやいてから頭を下げ、ちょっと涙をこぼした。
母は、杖をついている。
多分、あちきを連れてくる事ができたし、身体と年齢を考えて、今回の墓参で終わりにしようと思っていたようだ。
摺鉢山で、母はバスを降りなかった。
足が悪いからだ。
バスは頂上のすぐ側まで入ることができる。
母は、三回「硫黄島」を訪れている。
家族が亡くなった訳ではない。
母に理由を聞くと、「お世話になった兵隊さんがたくさんいたからだよ」と答えた。
あちきが、摺鉢山の頂上でみんなから離れ、海を見ていたら二頭の鯨が潮を噴きながら、何度も頭を海上に出していた。
回りを見ると誰も気がついていない。
教えてあげようかと思ったが、止めておいた。
何かが壊れてしまうと思ったからだ。
バスに戻り母にだけ教えた。
母は、微笑んでいた。
点呼が終わり、同じ飛行機で、同じ轟音を聞き、入間に戻った。
冷たい雨が降っていた。
何が現実かわからなくなりかけた。
さっきまで、暑くて、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている東京にいた。
そして今、寒くて、冷たい雨の降っている東京にいる。
夢を見ていたんじゃないかと思ってしまった。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが「硫黄島」に行った事が、「夢」だったらどんなによかったか。
全部「夢」だったら、何万人も、こんな小さくて、何も無いきれいな島で、命を落とさなくてもよかったのに。
全部「夢」だったらよかったのに。
あちきが目を開けたら、小学校四年生の、あちきのあにきの子供の頃にそっくりな顔をした、船の長旅に酔い、ちょっと青ざめた顔をした女の子に、希望に満ちあふれた目をした、あちきにそっくりの足の甲をした、妙に不機嫌な女の子に会えたかもしれない。
結核の兄の療養に来た、島に戸惑うちょっと浮いた雰囲気の家族に会えたかもしれない。
何も音の聞こえない世界に紛れ込んでしまった。
何も聞こえない海で、二頭の鯨が潮を吹いている。
何も聞こえない森で、赤い蟻が何百匹も動いている。
何も聞こえない丘で、母が目から赤い涙を流している。
何も聞こえない空で、アジサシがたくさん飛んでいる。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
何も聞こえない。
空からゆっくりと、はがきが降ってくる。
あちきが拾う。
よく見ると、それはあちきではなく、柳野だった。
柳野も泣いている。
柳野の涙があちきに降り注いだ。
顔をあげると、冷たい雨だった。
急に音が戻った。
まわりを見ると、朝来たホテルの駐車場だった。
それぞれ、なんとなく挨拶したり、「来年も行きましょうね」「お元気で」などと声をかけている。
後ろを見ると、母が杖をついて立っていた。
あちきが渋谷で買ってあげた、緑色の杖だ。
すりへってきた、杖の底のゴムを変えてあげなくちゃ。
まだまだ、お前には働いてもらわなくちゃいけないから。
もう「硫黄島」には行く事は無いと思う。
目をつぶると、二頭の鯨が楽しそうにゆっくりと泳いでいる。
あちきが、硫黄島に行こうが行くまいが。
そんな訳で、今週もがんばって生きていきまっしょい!
ひとの犯した罪は、こんなにも重い。
ひとの侵した土は、こんなにも清い。
消えていったひとびとの命は、誰のものだったのか。
戦い争い憎みあうことから手を放す勇気が、未だ持てずにいる、この世界。
けれど
いつか、ひとびとが手を取り合い暮らせる世界が、きっと訪れる。
信じることを諦めてはならないと、改めて思いました。
色々考えさせられます。
今このときもどこかで流れなくてもいい血が流れていて・・・
改めて硫黄島からの手紙を見直してみようと思いました。
以前、ご両親が「硫黄島」へ行って来られたことを、ブログに載せられてたのを思い出しました。 今回は勝村さんが付き添われたのですね・・・
読んでいて、胸がいっぱいでうまく言えませんが、勝村さんの優しさがとっても伝わって来ました。
摺鉢山で見た光景を、お母さんにだけ教えてあげたところとか・・・
小さい頃のお母さんを思い浮かべているところとか・・・
すり減ってきた杖のゴムを換えてあげようと思っているところとか・・・ズーンと胸に来ました。
命の尊さ、平和のありがたさを、改めて考えさせられました。
今週も頑張って生きていけます・・・ありがとうございます。<(_ _)>
だけど悲しんでばかりいてはいけませんね。
知らなきゃいけないことがたくさんある!
そして今自分がここにこうしていることに感謝しなくては。
昔祖父が戦争の体験を記した本を読んでみようと思います。
今はまだ心の中がグルグルしていてうまく整理できていませんが
自分のこと、みんなのこと、知らない誰かのこと、
すべての人、モノ、環境、歴史などなど、大事にしたいと思いました。
私の両親も戦争経験者です。
小さい頃から戦時中の話をよく聞かされました。
小さい頃は真剣に耳を傾ける時もあれば、ありがた迷惑に感じる時もありましたが、今となっては戦時中の話を聞けた事は大変貴重な事だと感じています。
決して忘れてはいけない過去を戦争経験者から直接話を聞く事ができた。
それが出来ない時代になっていく事が少し不安に思います。
食べ物を残す事を大罪に感じる事もなくなっていく様な気がして。
強く、運命を感じた出来事も、きっと偶然ではなく必然だったのだろうと感じてしまいます。
忘れてはいけない、次の世代に伝えなければならないと言っている気がしました。
私の母も若い時に二度結核を患い、その後遺症で今は呼吸器障害者です。
年も重なり、ここ数年で私は母に面倒をみてもらっていた側から面倒をみる側に変わっていきました。
苦に感じる事もありますが、世話をする事にしあわせを感じます。
それは、両親が立派だったから今私はそう感じる事ができるのだと思います。
勝村さんのお母様を思いやる様子にもご両親の懸命に生きていらした人生を感じます。
勝村さんが鯨の話をお母様にだけこっそり話したエピソードは微笑ましいですね。
いつもはお父さんとしての勝村さんのお話を拝見する機会が多いですが、ここでは勝村さんが子供なんだなぁ、と。
親子の姿を垣間見た感じです。
久しぶりに素敵なお話をありがとうございました。
(失礼。そんな事ないです。毎回素敵です!笑)
毎回コメント長くてすみませんm(__)m
それでは、今週もがんばって生きていきまっしょい!!
今日は暖かな日でしたね。
勝村邸の花桃は咲いていますか?
我が家の庭はにぎやかですよ。
悲しいこと、つらいことを乗り越えるエネルギーをもらっています。
硫黄島からのブログを途中まで読んで、
勝村さんのお母様のお兄さまが、硫黄島で亡くなられたんだと思いました。
読みすすむとそうではないんですね。
それなのに嫌いだった硫黄島へ、しかも悪い足を庇いつつお出かけになられるなんて。
理由が「お世話になった兵隊さんがたくさんいたからだよ」 だなんて。
素敵です。
私は今暗いトンネルに入ってしまいました。
お母様のようにはなかなかできませんが、
遠くに光が見えたような気がします。
話を変えて、先週、ケータイから、コメントしようとしたら、出来ませんでした。私、保土ヶ谷公園のラグビー場が見えるところに住んでいます。(横浜新道を挟んで)
まさか、勝村さんが、こんなところまで、サッカーをしに来るとは思っていませんでした。その日は、娘が風邪をひいていて、散歩に行きませんでした。もし、散歩に行っていたら、「軟式野球をやっているね」「サッカーをやっているね」と、ベビーカーに乗っている娘と皆様がPLAYする姿を見るので、1人で大興奮!だったかもしれません(笑)。
桜が綺麗な季節になりましたので、宜しければ、是非、保土ヶ谷公園に遊びに来て下さいね。
勝村さんのお母様が兵隊を思う気持ち、勝村さんがお母様を思う気持ちを読み、
「これだよ」と改めて、思いました。
「相手のことを思う気持ち」
日本の良いところだと思います。
「愛情」って、ちゃんと向き合えば、相手に通じる!と私は思っています。
だから、娘には、いっぱい、いっぱぁーいっ、愛情を注いでいるつもりです。
段々、気候も暖かくなり、育児に家事にフル回転!でバテそうだけど、頑張って生きていきっまっしょい。
両親も物心つかない頃に戦争が終わったそうです。
祖母も祖父も私が小さな頃に亡くなったので、戦争の実体験を聞くことも全くといっていいほどありませんでした。
でも、勝村さんの一つ一つの言葉を見ていると涙がとまりませんでした。
去年、父が癌と分かってからすぐに亡くなりました。
まだまだ若くて第二の人生に期待していた矢先の事で、不条理な現実に悔しくて仕方なかったです。
でも、戦争はもっと多くの不条理によって悲しすぎる人たちを消してしまったのかと思うと涙がこぼれてきます。
勝村さんのブログは、ただおもしろいだけでなく、とても大切なことを思い出させてくれます。
いつもありがとうございます。今週もがんばって生きていきまっす!
すごい体験をされたのですね。
何と言ったら良いのか…言葉がうまく見つけられないです。
ただ、お母様から勝村さんへ、勝村さんからブログを通じて私たちへ伝えて頂いたことを大切に、いろんなことを考えるきっかけにしたいと思います。
教えて下さってありがとうございます。
すごい体験をされたのですね。
何と言ったら良いのか…言葉がうまく見つけられないです。
ただ、お母様から勝村さんへ、勝村さんからブログを通じて私たちに伝えて下さったことを、大切に、いろんなことを考えるきっかけにしたいと思います。
教えて下さってありがとうございました。
色々な思いが詰まって言葉に出来ませんが。。。
この文を読むことが出来て良かったです。
本当にいろいろ考えさせられました。
自分にとって戦争は、写真や教科書の中の出来事でどこか現実味がなかったんですが、実際に信じられないぐらい多くの人が命を落としてるんですよね・・・。
今の平和を当たり前だと考えたらいけないと思いました。
精一杯生きていきます。
「夢なら良かったのに」という言葉が頭の中でぐるぐるしてしまい
コメントさせていただきました。
先日の戦争もののドラマを見て、こんなことなかったら・・・って、初めて「戦争なんてなかったらよかったのにって思いました。
同じ気持ちの人もいるんだな、戦争を教科書やテレビでしか知らない人間として
強く思いました。
読後直後に口をついて出たのは
「全部「夢」だったらよかったのに」です
(前述の方と同感ですね)
今があるのは、
言いたいことを言い
食べたいものを食べ
着たいものを着て
行きたいところに行き
こういう事の上に成り立っているんだってこと
忘れてはいけないということですね
でも、眠っている人達には
「夢」だったんだと静かに眠ってほしいです
合掌
でも、今回は涙がボロボロと止まりませんでした。
「全部「夢」だったらよかったのに。」
本当に、そうだったらどんなに良かったんだろうと
きっと色んな人が思ったでしょうね。
でも、忘れてはいけないし
知らなきゃいけない事なんですよね。
上手く言葉で言い表せなくて、もどかしいですが…
これからも、がんばって生きていきまっしょい!
『硫黄島』の話、
聞かせてくれて、
ありがとうございます。体験した方にしかわからない貴重な感覚、勝村さんの文からしっかり
受け取りました。
私は、体験できないから。
クジラの話、映画『スタンドバイミー』の鹿のシーンを思い出しました…
今回は硫黄島のお話、なんだかタイムトリップしたような感覚で読ませて頂きました。
ところで、私の父方の祖父は、硫黄島で戦死したそうです。
父が生まれたばかりの頃に戦争に行って、帰らぬ人となりました。
祖母は再婚したので、私は血のつながりのあるその祖父のことはほとんど聞かされることなく大人になったのですが、ある時ふと、その祖父の写真を見つけて、少しだけ話が聞けました。
『海軍にいた人で、硫黄島で戦死した』という、わずかな話ですが。
でも、まだ若く、自分の子供の成長も見ることができずに亡くなった祖父の思いはどんなだったんだろうと気にかかるようになった頃、「硫黄島からの手紙」が話題になったりと、私にとっても硫黄島はなんだか特別な思いのする場所です。できれば、私も行って硫黄島を感じて、お墓参りがしたいのですが・・・、難しいんですよね(>_<)
ネットで調べたりすると、硫黄島での戦いは過酷をきわめたとか。(もちろん戦争を経験した人はみんな過酷だったのでしょうけど)祖父の魂が、今は安らかに眠っていてくれるようにと祈るばかりです。
勝村さんがあの島にそんな縁をお持ちだなんて。
めったに泣かないのですが(特にPC読んででは)
年のせいですかね。涙が次々と…あれれ
すてきな日記でした。ありがとうございます。
あの島には、本当にたくさんの方の思いが込められているんだなと思いました。
私も昔の硫黄島を知っているおばあちゃん達の話を聞きたかったです。
戦前の島がどんなところで、どんな生活だったか、とても興味があります。
先日、戦場の郵便配達を家族で見ました。
戦場の島と今の島は、別の島に思えてしまう事があります。
でも、ドラマや映画で再現して頂いているからこそ、頭の中で整理できる部分があるのかな?と思いした。
硫黄島の話、ありがとうございました。
最後まで読んできて、今週はまるで村上春樹の世界のようだと思いました。
「ねじまき鳥クロニクル」の世界。
でも、夢じゃないのですよね。
少し悲しい気持ちで読み終えました。
砦となった島ですよね。。。
風邪ひかないで頑張ってください!
いつも楽しく拝見させていただいております。
今後も楽しみにしております。
月曜からも頑張ってくださいね!
ブログ頑張って゚・:,。★
仕事で硫黄島のことをネットで調べていたところ、
偶然こちらのブログ記事を拝見しました。
PFも拝見しましたが、わたしは勝村さんと同じ年齢なんですね。
昭和38年生まれ。
高度成長期でもみくちゃの時代で、
物資は豊富で何不自由ない生活。
「戦後」は既に過去のものという風潮の中で育った世代です。
が、僕らの世代はDNAの目立つところに戦争の記憶が刻み込まれていることを、この記事を拝見してそう思いました。
戦後まもなく、わたしの母親は東京下町で芸者をしていたそうです。
ちゃきちゃきの江戸っ子の父はお客として母と知り合ったそうです。
2人とも幼い頃、東京大空襲のときは偶然疎開していたため、
戦火を逃れたそうですが、空襲前と空襲後の東京の変わった風景を
わたしは子守唄のように聞かされて育ちました。
友達も、親戚も、戦争で亡くしてしまった両親。
食べるために雑草を食い、闇市で万引きもしたそうです。
そんな両親も既に他界しており、人の生死を考えるにつけ、
わたしは両親を通じ、間接的にですが、
戦争を身近に感じるようになりました。
二度と起こしてはいけない過ち。
運命。
残酷で幸せな一生。
わたし達の世代も、そろそろそんなことを考える歳になったんですね。
こうして勝村さんのブログを拝見できたのも、
ひとつの運命なのかな、と思います。
勝村さんのご活躍を心より応援しておりますね。
今日も暑くなりそうです。
ブログ待ってますね。
今日も寒いそうですね。
暖かくしてお出かけくださいね。
また遊びにきますね。
お体に注意してブログ更新頑張ってください。
また遊びに来ます。