冬の行水 その2 / 2007年05月09日
僕が幼稚園の時、近所の同じ歳の男の子と一緒に帰ってきた。
その子はトイレを我慢していた。(昔は便所ね)
小走りで急いで玄関を開けようとした刹那。
その子はいきなり座り込んだ。
鍵がかかっていたのだ。
その子のイメージ。
小走りのままアメリカ人のように靴を脱がず部屋に駆け上がる。(ヨーロッパ人でも可なんだそりゃ)
ちょっとした罪悪感を抱きトイレに駆け込む。
脱ぎづらい半ズボンに手を焼く。
少しイライラする。
しかし、「便器が流れてしまえぇ」と思うくらいの、かわいい「うんち」が「こんにちは」をする。
その子スッキリ。
満面の笑顔のその子。
笑顔のおかあさん。
笑顔のおとうさん。
笑顔のジョン。(その子の飼っていた犬)
笑顔の近所の人たち。
などに囲まれ、まわりで輪になって踊り、最後には胴上げまでしてもらう(スローモーションで)くらいのシアワセな映像が大画面で流れていたであろう。
しかし、、、、、、、、、
鍵がかかっていたのだ。
全ての緊張の糸が切れ、肛門の括約筋が活躍をやめた。
立っている力を「閉じた鍵」に奪われ、座り込んでしまったのだ。ろう。
運よく?近所のお母さんたちが井戸端会議をしていた。
しかし、子供の排泄物慣れしていたはずのお母さんたちが 、、、、
ひいた、、、、、、、、、
自分達が慣れ親しんだはずの
自分のお腹を痛めた赤ん坊の「う○○」とは
かわいく小さな赤ん坊の「○ん○」とは
「質」も「量」も違っていたのだろう。
しかもその子の母親はそこにはいなかった、、、、、、
他人の子の「○○こ」。
多分、「○○ち」ではなく「○○こ」。
母親達が全員白目になっていた。
続かない。
しかし、百戦錬磨の母親達。直様目を覚ますとアイコンタクトを始めた。
流石百戦錬磨。
アイコンタクトなんて言葉のなかった時代に、何事もなく行っていた。
一瞬だった。
僕も幼稚園生だったからよくわからなかったが、多分、こんな事が語られていたのではないかと思う。
「どーすんの?」
「誰の家で洗う?」
「あたしん家は風呂なおしたばっかりよ」
「だって、あんな「質」のあんな「量」の「○○こ」、家の風呂で洗ったら大変よ、後が、、、」
ってな感じであろう。
そして、数秒後。
僕の母が手を挙げた。
「うちで洗ってあげるから、みんなお湯を用意して」と
そう、我が家の「棺桶」は、いや、風呂は、言ってみれば「使い捨てる」事が出来る。
簡単に。
後は、玄関を掃除する人。洋服を洗う人。
等に別れ流れる様に仕事が進んだ。
流石、百戦錬磨。
一時間もすれば何も無かったかの様だった。
僕は、ちょっと誇らしかった。
他人の子供を洗ってあげている母。
そして、「棺桶」。
頼もしかった。
近所のお母さんたちも、仕事の段取りが決まってからの素早い動きは、目を見張るものがあった。
流石百戦錬磨。
頼もしい「棺桶」は捨てられてしまったけど、新しい「棺桶」が我が家の在庫から登場した。(何故、在庫が?)
「棺桶」はその後もいろいろと小さな小さな活躍を続けた。
その子はトイレを我慢していた。(昔は便所ね)
小走りで急いで玄関を開けようとした刹那。
その子はいきなり座り込んだ。
鍵がかかっていたのだ。
その子のイメージ。
小走りのままアメリカ人のように靴を脱がず部屋に駆け上がる。(ヨーロッパ人でも可なんだそりゃ)
ちょっとした罪悪感を抱きトイレに駆け込む。
脱ぎづらい半ズボンに手を焼く。
少しイライラする。
しかし、「便器が流れてしまえぇ」と思うくらいの、かわいい「うんち」が「こんにちは」をする。
その子スッキリ。
満面の笑顔のその子。
笑顔のおかあさん。
笑顔のおとうさん。
笑顔のジョン。(その子の飼っていた犬)
笑顔の近所の人たち。
などに囲まれ、まわりで輪になって踊り、最後には胴上げまでしてもらう(スローモーションで)くらいのシアワセな映像が大画面で流れていたであろう。
しかし、、、、、、、、、
鍵がかかっていたのだ。
全ての緊張の糸が切れ、肛門の括約筋が活躍をやめた。
立っている力を「閉じた鍵」に奪われ、座り込んでしまったのだ。ろう。
運よく?近所のお母さんたちが井戸端会議をしていた。
しかし、子供の排泄物慣れしていたはずのお母さんたちが 、、、、
ひいた、、、、、、、、、
自分達が慣れ親しんだはずの
自分のお腹を痛めた赤ん坊の「う○○」とは
かわいく小さな赤ん坊の「○ん○」とは
「質」も「量」も違っていたのだろう。
しかもその子の母親はそこにはいなかった、、、、、、
他人の子の「○○こ」。
多分、「○○ち」ではなく「○○こ」。
母親達が全員白目になっていた。
続く
続かない。
しかし、百戦錬磨の母親達。直様目を覚ますとアイコンタクトを始めた。
流石百戦錬磨。
アイコンタクトなんて言葉のなかった時代に、何事もなく行っていた。
一瞬だった。
僕も幼稚園生だったからよくわからなかったが、多分、こんな事が語られていたのではないかと思う。
「どーすんの?」
「誰の家で洗う?」
「あたしん家は風呂なおしたばっかりよ」
「だって、あんな「質」のあんな「量」の「○○こ」、家の風呂で洗ったら大変よ、後が、、、」
ってな感じであろう。
そして、数秒後。
僕の母が手を挙げた。
「うちで洗ってあげるから、みんなお湯を用意して」と
そう、我が家の「棺桶」は、いや、風呂は、言ってみれば「使い捨てる」事が出来る。
簡単に。
後は、玄関を掃除する人。洋服を洗う人。
等に別れ流れる様に仕事が進んだ。
流石、百戦錬磨。
一時間もすれば何も無かったかの様だった。
僕は、ちょっと誇らしかった。
他人の子供を洗ってあげている母。
そして、「棺桶」。
頼もしかった。
近所のお母さんたちも、仕事の段取りが決まってからの素早い動きは、目を見張るものがあった。
流石百戦錬磨。
頼もしい「棺桶」は捨てられてしまったけど、新しい「棺桶」が我が家の在庫から登場した。(何故、在庫が?)
「棺桶」はその後もいろいろと小さな小さな活躍を続けた。